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■ 26号.2009.01発行

新年号企画

あの頃、人間が経済の主体だった 
今こそ「日本的経営」と「友愛の精神」を
――仕事が教えてくれた大切なこと――
株式会社アニマトゥール弘報企画 道下弘子

世界同時不況の行き先は予想もつかない。しかし、はっきりしているのは、経済の主体である「人間」の姿が少なくとも現在の日本ではまったく見えないことだ。命の綱とたのむ勤め先から追い立てられる勤労者だけではない。日本経済団体連合会会長や巨大企業の経営者が、この非常時に経営者らしく、人間らしく発言し、行動したという話は聞かない。
あらためて人間が経済の主体であり、経営に人間の顔が見えていた時代を思い起こす。今こそ、近年否定されてきた「日本的経営」の理念を見直すべきではないか。また、NPOなど非営利組織の活動から個々人の心に至るまで、安寧をもたらす理念が求められる。私はそれを「友愛の精神」と呼びたい。私にそうした認識を与えてくれたのは、テレビ大阪での番組制作と国土交通省近畿地方整備局での広報コミュニケーションの仕事であった。

人間味豊かだった関西の経営者

かつて私はテレビ大阪でアシスタントディレクターという走り使いに近い役割ながら昭和58年から61年まで「関西ビジネス最前線」という看板番組の制作に携わった。関西の経済や財界の動向、関西系企業経営者の経営論や人となりを発信するその番組は、次第に経営者や中堅ビジネスマンに注目されるようになり、キタ新地のママたちが、客に話題を提供するため録画することも珍しくなかった。
以下はその番組の取材を通して知った人間味豊かな経営者のスケッチである。
「○日にプールで泳ぐよ」と自ら電話してこられた気さくな宇野収氏(開催経済連合会会長・東洋紡績)。水泳で鍛える素顔の宇野氏をプールサイドで撮影する予定だった。打合せに会社の広報担当者が同席しないのにも驚いた。糸偏企業がすでに産業の主役でなくなったこの時代に7年間関経連会長をつとめられた。年間5億円にのぼる会長職経費を会社から持ち出さねばならないのは、厳しかっただろう。社内で自分を売り込むなどまったくなしなかった人がトップに上り詰めたのは、人望が厚かったからだ。つとめていた呉羽紡が吸収合併されるとき、会社を辞めるつもりだったが、吸収側の東洋紡が「一人も辞めさせてはならない」と全社員に伝達していることを知り、思い留まったという。大好きな人だ。
松田聖子のCMソング「Sweet Memories」に乗って登場したのは佐治敬三氏(大商会頭・サントリー)。豪毅闊達な人で、ビール進出に乗り出した佐治氏の執念が45年目の今年ようやく業界3位の地位をもたらした。万年赤字のビール事業が黒字転換かと期待されている。手にしたスリッパを拍子にして歌う十八番「ローハイド」が今も目に焼き付く。ちなみに同社は私が40年来ファンである萩原健一さんのイベントなどに協賛してくれるため、ビールはサントリーと決めている。
ダイエーの創業者・中内功氏は百貨店「プランタンなんば」開店のときにドキュメントで追った。店舗下見の際には社員が超ピリピリしていて、まさに「天皇」と呼ばれるにふさわしく、孤独な人に見えた。昭和32年に開店したわが国のスーパーマーケット第一号は、中内氏がアメリカ視察で見た店舗がビジネスモデルであることを最近知った。ホテルに着くと毎日毎日一人で出かける中内氏に行き先をたずねると「大倉庫のような店で客が勝手に商品を取って、レジで集約して支払うスーパーマーケットが面白い」と、嬉々として話していたという。
のちに国鉄再建監理委員長として敏腕を発揮した亀井正夫氏(住友電工)には、光ファイバーケーブルによる通信新時代を語っていただいた。極めて頭脳明晰で人当たりも言葉も柔らかい。すばやい受け答えは「はっ、ほっ」と漫才のような相づち。いつも濡れたチャーミングな唇だった。累積債務37兆円に達した国鉄で職員9万人の人員整理にあたって「配置転換はするが、路頭に迷うものは一人も出さない」と国会で明言し、全国に国鉄職員の再雇用を頼んで歩いた。この人も大好きだった。

泣きながら語った解雇の思い出

リストラという言葉のない戦後、3度にわたって大量解雇せざるを得なかった苦い思い出を泣きながら話された山田稔氏(ダイキン工業)。社長就任早々に見舞われたオイルショック不況では「会社が存続する限り、当社が人員整理をすることはない」という方針を貫き、一時帰休も希望退職も募らなかった。余剰人員は新設した販売会社に吸収したのだ。情に厚い人で「財界の老人キラー」とも言われていた。「嫌いなのはカニ。道頓堀のカニの大看板はとても怖い」という発言にスタッフ一同大笑いした。
大松下の社長とは思えないスリムな山下俊彦氏。25人抜きで社長に抜擢されたときの取締役会の写真は直立不動、当時「山下跳び」と騒がれた。子会社に何年も出向し、およそ本流から遠いときもあったが、幸之助氏のメガネに唯一かなう人だった。のちに松下幸之助特番の取材で、住友銀行の堀田庄三氏が打ち明けてくれた。寝込んでいる幸之助氏を見舞ったら、「後(現社長)は(自分とは)生き方が違う。どうしようかと悩んでいる」「この男なら自分の思うようにやるという男はいないのか」「ないことはない」「それなら起用したらどうか」――幸之助氏はガバッと跳ね起きて「わかった」。その2日後に山下社長が誕生したという。

会社の枠越え、国を憂え関西を憂え

「経営の神様」松下幸之助氏は放送100回記念として、2週にわたる特番で、生い立ちからのストーリーを社内外の重鎮27人と本人最後の単独インタビューで綴った。昭和4年の世界恐慌では、生産を半減し、首切りも給与カットもしない代わりに休日返上で在庫品の販売に全力を尽くすよう指示した。私財70億円を投じて松下政経塾を設立したが、90歳になってもまだ国を憂え、したいことがあったらしく、時間が惜しいようだった。
最終回では若手経営者の勉強会「井植学校」を通して、亡き井植歳男氏(三洋電機創業者)を回想した。幸之助氏とともに松下を発展に導いたが、戦後、財閥指定を回避するために義兄の幸之助氏とたもとを分かち、三洋電機を創業した。井植氏の14回忌の時「井植歳男がいてくれたら、今の松下と三洋を足したよりももっと大きくなっていたはず」と幸之助氏が云ったという。懐が深くて広い人で、豪快そのもの。エアコンの生産工程すべてを競合会社の自分に見せてくださったと、ダイキン工業の山田氏は涙ぐんでいた。淡路島に関西新空港をつくるよう提言したのも井植氏で、生きていたら実現していたかも知れない。神戸・ジェームス山を住宅地として開発するため、休日にランニング姿で自らブルドーザーを運転する8ミリ映像が印象的だった。
とにかく一流の企業トップにたくさん出合った。彼らの共通点は、会社の枠を越えて国を、関西を憂える財界リーダーだったこと、また、人員整理を最大の恥としたこと。そしてみんなチャーミングだった。彼らならきっと安易なグローバリズム――規制のない経済を理想とする自由放任主義、日本的経営否定論に強く警鐘を鳴らしたに違いない。

真面目な地域活動で深まる<友愛>

企業経営とは分野は違うが、私が携わっている広報コミュニケーションから学んだのは<友愛>だ。
行政広報は<地域づくり協働>や<自分事としての防災への備え>、<社会資本整備への理解と協力>を住民や一般市民にアピールし、実現へと繋げることだ。手段はイベントや学校教育、テレビ・ラジオなどのマス媒体、ウェブ、印刷媒体など。とにかく信頼関係を築き、わかってくれる人を増やし、能動的に動く人になってもらう。その人たちが結果的に絶好の市民広報マンになる。役所と住民ではあるが人と人との関係が、息の長い活動と周囲の人々への波及効果をもたらす。
琵琶湖・瀬田川の治水と環境がテーマの見学会参加者を母体とした「瀬田川リバプレ隊」(River:川でPlay:遊んで親しむの造語)は「琵琶湖・瀬田川の恩恵を次代の子どもたちに語り継ぎ、 誇るべき瀬田川づくりを流域の人々の導き手となって進める」を趣旨に、リタイア層中心に活動するNPOだ。
アニマは国交省の業務としてリバプレ隊の企画から運営、NPO申請まで2年半携わったが、設立後はまったくどこからの支援もない独立組織。解剖教室付きの外来魚魚釣り大会や流入河川の清掃、ヨシ刈り、琵琶湖や周辺の山河で活動する市民団体をつなぐ会議など、活動をブレずに実直に続ける。活動に向き合う姿勢も活動自体も真面目そのもの。生真面目な活動を通して敬愛する理事長を中心に繋がった<友愛>の輪を、外部にも繋げる努力もしているし、草の根的な広報手法も持っている。活動で隊員の誰も得をしない。あえて言えばgive & giveの関係だ。<友愛>を基盤にしたリバプレ隊モデルを展開することが広報コミュニケーションの原点であり、到達のカタチだと確信している。

<友愛>を生み出すコミュニケーション活動を

よりよき地域づくりは簡単に運ぶわけではない。中傷や偏った報道も珍しくないが、公正な視点で考え、住民エゴが淘汰される場面は、実際に他の業務で見てきた。例えば住民説明会で住民が住民を「欲張りすぎだ」などと諭すのである。対行政や仲間どうしで真面目に向き合う底流には、日本社会がこれまで育んできた<良識>があり、そこに<友愛>が加われば世界は明るいに違いない。思えば井植学校も<友愛>の賜だった。
<友愛>こそ心に、社会に安寧をもたらす最後のサンクチュアリだ。混沌する現在社会で<友愛>はよりいっそう大きな使命を持っている。アニマは<友愛>を生み出す広報コミュニケーションを、深く熱い情と愛で進めていくことを使命としたい。
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マイナス20歳
「人間60年 ジュリー祭り」に行ってきた。全80曲、6時間20分を一人で歌いまくった。ジュリーファンでない者にとって知らない曲が続くとつらかったが、最後まで楽しませてもらった。還暦の沢田研二はステージでも躍動し、走りながら歌う場面もあった。とにかくヒット曲の多さに驚いた。多分誰もが知っているのが約30曲、それにザ・タイガース時代のヒット曲が入る。ヒットを重ねてきた実績と持続力が大阪・東京で5万人以上を魅了した。
 マーティン・スコセッシ監督がザ・ローリング・ストーンズのライブをドキュメンタリー映画化した「シャイン・ア・ライト」。2006年ニューヨークで座席数2800という小さな劇場でのライブが中心だ。彼らのステージマナーはスピード・スタイルともに若い時と変わらないし、仲間とともに好きなロックをますます楽しんでいるのがビンビン伝わる。しかし、ドラムスのチャーリー・ワッツは1941年、ミック・ジャガーとキース・リチャードは1943年生まれの同級生。最年少のロン・ウッドだって1947年生まれ、立派な“アラカン(還暦)”だ。今年ストーンズは平均年齢65.5歳になる!
ひるがえってワタクシはアラ○。昨年は11月に思い切って事務所を移転、業績の上向きをめざして奮起するヒントを彼らから得た。マイナス20歳だ。
読者のみなさまもマイナス20歳とパワーアップして2009年を乗り切りましょう。あつかましいとは誰にも言わせません。

(道下弘子)

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『千の風になって』は歌わない
  年末のNHK紅白歌合戦で、またも『千の風になって』が歌われた。3年連続の同じ歌は異例だ。日本人はよほど、この歌が好きなのだろうか。そうではなくて、この歌を誤解しているためではないのだろうか。
「私のお墓の前で泣かないでください」は新井満氏の訳で、メロディも同氏の作曲だが、原詩は2004年に98歳で亡くなったアメリカ人、メアリー・フライという説が有力らしい。折に触れ、米英で弔辞として引用されてきたが、評判になったのは9:11同時テロで父を亡くした11歳の少女が朗読してからである。金融機関が集結した二つの高層ビルにジェット旅客機が突っ込んで、約1時間後に完全倒壊した事件はテレビのショウのように世界に放送されたが、あれでは3千数百の遺体は区別しようもなく、遺族は墓に満足な遺体を収められなかったに違いない。「そこに私はいません」と嘆くのはもっともであろう。
この歌が好きな人に聞くと、遺体のあるなしには関係なく、亡くなってもスピリットは浮遊していて「あなたを目覚めさせる」「あなたを見守る」なんてところが心に触れるらしい。原詩はいろいろあるけれど、最も一般的なものの中に“you”が一つもなく、“I”が11 も出てくる。どう考えても、日本人以上に遺体に固執する欧米人の“恨み節”と思えるのはひねくれているからなのか。
アメリカの金融、それへの報復を誓ったブッシュ政権の「テロとの戦い」。現在では、諸悪の根源と思える世界の政治経済の流れを精神的に誘導したのはこの歌だとまで断じる気はないが、ブッシュ大統領やジュリアーニ前ニューヨーク市長の言い訳とも聞こえるこの歌を、私は歌わない。  

(有光弘和)

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