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■ 28号.2011.01発行


[プロフィール]

片山杜秀氏
1963年宮城県生まれ。86年慶應義塾大学法学部政治学科卒業、92年同大学院法学研究科後期博士課程単位取得退学。政治思想史を専攻。大学時代から雑誌・新聞に、時事コラムや音楽評、映画評などを幅広く執筆、2008年から慶應義塾大学法学部政治学科准教授(政治文化論担当)。09年から国際日本文化研究センター客員准教授。
08年に『音盤考現学』『音盤博物誌』でサントリー学芸賞と吉田秀和賞を受賞。
著書は『近代日本の右翼思想』(講談社[選書メチエ]2007年)、『クラシック迷宮図書館――片山杜秀の本3』(アルテスパブリッシング2010年)、『続クラシック迷宮図書館――片山杜秀の本4』(アルテスパブリッシング2010年)など。


文化>政治で見る近現代の思想
丸山眞男も三島由紀夫も手段は違えど
アジールを守るという目的は同じ

個人が追求する価値を侵害や圧迫されない社会――丸山眞男も三島由紀夫も目標としたのは多様なアジールのある社会。異なるのはその方法論だ。
丸山は、アジールを守るには政治は調整役だけの弱い方がよく、自己武装権や防衛権も国民に戻すべきとし、国民の自立を阻害するとして天皇制を否定した。三島は、みんなの自由を守るために武力が、調整や妥協をオーソライズする機能として天皇制が、それぞれ必要であると説いた。

――片山先生は思想史研究家と音楽評論家2つの肩書き…戸惑います(笑)。

片山 中学時代からのめり込んだクラシック音楽で知り合いがどんどん増え、20代からフリーライターとして音楽評論を中心に何でも書いてました。週刊誌からCDのライナーノートまで(笑)。しかし日本の右翼についての昔の論文が関西で読まれるようになったのがきっかけで、出身大学に呼び戻してもらいました。
 今日は日本の近現代思想をちょっと違う角度からお話しします。

 

アジール化は国家弱体の元凶と考えた平泉澄

片山 皇国史観の代表的歴史家と知られる平泉澄は、靖国神社のA級戦犯合祀を指導したと言われている人です。
 平泉の『中世における社寺と社会との関係』(1926年刊行)は、当時欧州で流行っていたアジール論で日本中世を研究した著書です。asileは本来の意味は“不可侵”ですが、“避難所”“権力者の恣意的な命令や法律から自由になる場所”として使われています。
 このなかで平泉は、日本でも中世にアジールがあったと説きました。権力者の領地内に命令が通じないエリアを持たせたくない戦国大名と、アジール権を持つ寺社との対立を豊富な事例を挙げて述べています。
 するとなぜ平泉は大正後期にアジール研究へと乗り出したのか。アジール研究は皇国史観にどうつながるのか。
 古代、天皇の元での国家は一枚岩で、アジールはなかった。中世に一枚岩的権力が崩れ、貴族勢力や武士の出現など、権力が多元化して国家秩序が壊れた。欧州の中世史観と同様、日本の中世も国家が乱れて暗黒であった。だから、法や権力の及ばないだらしないアジールが出てきた。そこで武士がアジールをなくす方向で武家社会をつくり日本をまとめなおして、ついに明治憲法で本格的にアジールのない国になった。なのに、大正期に入り、白樺派、教養主義など“私”の内面生活を第一義に考える人たちが出てきた。政治では大正デモクラシー。国民精神が一枚岩にならずにばらける一方。これはアジールの現代的復活じゃないか。それで中世研究を装って、現代に警鐘を鳴らしたというわけです。
 資源なく領土も狭い後発資本主義国の日本は、国民の結束が弱まれば、すぐに列強との競争から脱落してしまうというのが、平泉の歴史観。みんなで坂の上の雲を見てがんばった日露戦争までの日本は良かった、という司馬遼太郎史観と全く同じです。

 

丸山眞男の思想の源は洋物音楽鑑賞を邪魔されない社会

片山 アジールをポジティヴに見て、いかに擁護するかを一生のテーマにした人が、丸山眞男だと思います。
 丸山の出発点は、大好きなクラシック音楽を聞くと「非国民」と後ろ指さされた戦時期の日本社会への恨みでしょう。これからは絶対そんな目に遭いたくない。自分の聴く場所を守り抜く。そのための政治学を考えた。
 丸山のキャッチフレーズは「永久革命」。革命というと経済や社会や政治を具体的にこうしたいというイメージがあるみたいですが、実は丸山にはそんなものはないでしょう。
 たとえば丸山は、現代では暴力革命はダメと説いてます。暴力革命をすれば一時的でも社会が止まる。電気が止まるとレコードも聞けない。内面生活が損なわれる。パブリックサービスが個人の内面生活と結びついている今、それが止まったり不安定になるような革命は近代人には許容されない。「革命の断絶性と生活の継続性とを結びあわせてゆく理論を提示しなければ現代革命の答えにならない」と、マルクス主義の論客・梅本克己に強く言っています(『現代日本の革新思想』)。
 文明が発展すればするほど色んな人が増える。多様性を許容する社会しかありえない。政治や経済や社会も複雑化する一方で、大胆に一挙にいじることは不可能だ。だから、オーディオを調整するのと同じで、あちらを立てるとこちらが立たずとなるから、ずっと調節し続けるしかないし、最低限のところで妥協するしかない。現代社会は日々新しい妥協を繰り返していくもので、それが政治の役割だ。特定の理想の実現をはかる強権的政治は古い。ただひたすら調整に徹するのが今日の政治だ。毎日変わるから永久革命だ。そう説いた。
 いろいろなものを最大限生かす。だれも他人に無理強いしない。これが丸山の民主主義論。一つの価値観が強くなりすぎたら、丸山はいつでもファシズムという言い方をしますね。

――今の禁煙運動もファシズム!(笑)

 

防衛権も国家から個人へ

片山 アジールを守るには政治は調整役だけの弱い方がよいし、自己武装権や防衛権も基本的人権だから国家から国民一人ひとりに戻すべき、と。まさに豊臣秀吉の刀狩りの逆です。丸山は憲法九条を擁護しましたが、これも絶対平和主義や戦争反対というのとニュアンスが違う。武装権を国家から個人に取り戻す。一人ひとりのアジールを守るために個人が武装する。そのためのステップとしての憲法九条。そういう視点が丸山にはあります。
 丸山は60年安保闘争を評価しますが、その理由も、安保改定は阻止されなかったけれども、岸政権がデモで倒れて国家権力が貧弱に見えた、その国民的経験が重要という。

 

アジールを守る仕掛けが天皇皇国史観を否定した三島由紀夫

片山 次は三島由紀夫です。40年前の事件はとてもショッキングでした。 三島は、楯の会のファッションや自衛隊体験、2.26へのあこがれなど“意匠”が皇国史観をイメージさせます。しかし彼の『文化防衛論』を読むと、日本を右翼的全体主義的国家にしようというのではないとわかる。丸山の左翼批判と同じで、暴力的活動によって一つの価値観でみんなを幸せにしよう、日本を変えてしまえるという錯覚で社会主義国家に向かう運動は間違いだ、それは文化を破壊すると、言い続けた。
 丸山のアジールはだれにも邪魔されず好きな音楽を聴く小世界でしたが、三島はだれにも邪魔されず好きな小説を書く小世界でした。もちろんそれを発表する自由が付け加わる。つまり言論の自由だ。それは単に言いたいことを何でも言う自由ではない。言葉が正しく使われる世界があってこそ、はじめてみんなが互いの言葉を理解し、認め合う前提が成立する。ところが戦後日本はどうか。自衛隊という軍隊があるのに、憲法九条でそれは軍隊でないと言う。インチキです。こんな言葉の使い方をしていては言葉が信頼されない。しかも言論の自由を対外的に守るために現代世界では国家は武装せざるをえないだろう。それなら憲法を変えて言葉の正しさを取り戻すしかない。
 三島も天皇の元で一つの価値観に国民を染めるのは間違いだとしています。古代から天皇は“君臨すれども統治せず”でみんなを自由放任し、権威付けするだけの存在なんだと。これは、八百万の神が円卓会議をやっていたと、民本主義的な日本神話理解をした和辻哲郎の天皇観と同じなんです。三島は、天皇を使って民主主義を守りましょうと言っているにすぎない。
 三島と丸山が決定的に違うのは、天皇問題です。丸山は、天皇の存在によって国民が無責任になるという理由で天皇を否定しています。
 一人ひとりが「俺は俺だ」という強い意志を持つ個人主義が育たないとダメなのに、天皇は「俺は俺だ」と言わない。主体的に振る舞わない天皇が一番上にいると、国民も主体化できないと、丸山は考えていました。主体化しないとアジールも守れない。他人がなんと言おうと、俺はクラシック音楽を聴くよ、という自信も生まれない。
 一方、三島は、妥協・調整をオーソライズする仕掛けとして天皇が居た方が社会として落ち着くという考えです。
 こういう視点で見ると、丸山も三島もめざすのは、一人ひとりが勝手なことをしてもだれにも圧迫されない世界――アジールを守る社会なんです。その点では同じじゃないか。

――今後、日本社会でさらにアジール化が進むと?(笑)

片山  個人の価値観が多様化し、社会の複雑化が進むと、多元的状況を認め合うしかない。でも、今の日本は実際には丸山が警戒したファシズム型に近づいているようにも思います。なぜなら、あまりに多元化が進みすぎて、政治から個人的趣味まで、なぜそれが問題なのか、好きなのかが、分かりにくくなっている。分からないと気持ち悪い。付和雷同して少数意見や少数者を叩く。三島も丸山も生きていたら怒ります。

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日本でもあった災害見物ブーム
 2008年5月12日に起きた四川大地震は、マグニチュード8.0、死者不明者9万人の大災害だった。そのすぐ後、被災地を見渡せるところに見物人が大勢押し寄せ、被災者らがにわか店舗を出して被害写真の絵ハガキなどを販売しているのを知り、中国人らしいと愕然とした。
 が、日本でもありました !
 亀の瀬地すべり事業の総括編を編集していて知った。地すべり活動が活発化した昭和7年1月から3月まで、多い日には一日2万人の見物人があった。見物人目当てに紅白幕をめぐらせた“野天カフエ”が出現し、地すべり写真の絵ハガキも売っていた。大した娯楽のなかった時代、犠牲者がなかったから無邪気に見物できたのか、あっても見物ブームは起こったのか。
 いま、災害見物はタブー視され、それが良識である。
 しかし、人の好奇心は止められないし、人が集まるところに商いが生まれるのは必定だ。中国人の災害見物は、欲求にまっこと素直ということか。

 

にわか災害オタクの“大発見”
 わが社のMがにわか災害オタクになった。伊勢湾台風と亀の瀬地すべり関連の業務で資料・情報を収集したこと、聞き取り調査したこと、砂防堰堤周辺の土砂災害履歴を調べたこと、世界と日本の簡易災害年表をつくったことによるらしい。
 伊勢湾台風では、風による被害、山崩れ、流木で橋が堰化されたあと一気に氾濫するなど、地域によって被害の特色が異なっていたことが“大発見”だった。
 また、災害年表では被災者の多さに改めて驚いた。日本では昭和40年頃まで風水害の年間死者不明者数は1000人以上だったが、それ以降はケタが断然低くなっている。
 が、世界は違う。サイクロン発生といえば数万人、地震でも10万人単位の人命が失われている。社会資本整備が正に国民のいのちを左右することを“大発見”したという。
 伊勢湾台風がその後の河川改修や堤防建設において基準となったのも感慨深い…と、言うております。ハイ。

 

語り継いでほしい!災害の記憶
 伊勢湾台風の記録集をつくった。2カ月で伊勢湾台風土砂災害の体験者50人に聞き取り調査をして版下までつくるというもの!対象地域は木津川上流の旧10市町村に及ぶ。人や被災地域の情報が皆目無いところからのスタートだった(T_T)。
 まず国会図書館で新聞記事を検索した。高潮災害の報道が圧倒的に多く、土砂災害の記事が出てきたのは数日後。一方で、当時の市町村職員を情報源にする作戦とし、OB職員や元区長さんから被災者と、数珠つなぎで紹介してもらった。
 BOSSと2班に分かれて聞き取りを開始。山崩れのあった地域では、道なき道を歩いて被害報告に行き、調査員や救援物資が届いたのは数日後だったと聞き、直後の記事がないわけがわかった。結局84人にアクセスし、62人を取材、60人の証言をまとめた。地すべりで子どもを亡くした人、復旧活動で父親を亡くした人、生き埋めになった人…50年を超えて話してくださった証言は、最後の発信機会に違いない。
 しかし、被災体験は家族に少し話した程度が大半で、機会があれば語りたいという人もそこそこいた。
 今のうちに体験者が語り継ぐ場をつくり、この記録集とともに減災のための共有の財産として欲しい。そして、せめて3カ月の工期をくださいっ。

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ワタクシの進歩と調和
 「う〜ん、マンダム」が流行った。
 ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンが逝去――えっ、二人ともこの年やったん?
 ド・ゴールもエノケンも逝去、ビートルズはこの年に解散した。
 小学生のとき歯磨きを最後の一滴まで楽に絞り出せる器具を“発明”しようと挑戦していたが、ラミネートチューブが登場したのでその必要がなくなった。
 中山律子が人気で、よくボウリングに行った。
 日立がLSIを開発したのもこの年。
 11月には三島由紀夫事件があり、新聞に割腹現場の写真が大きく載った。
 わが家の前の市電が地下に潜り、地下鉄堺筋線となった。開通した行き先は北千里、万博会場の北ゲートだ。休みになると自宅直下の駅から北千里へ??弁当をつくってもらい一人で万博に通った。嘉門達夫のようにバッチを集めたわけではないが、片っ端から見て回り、ソ連館以外はほぼ制覇した。中学1年生の熱意の源は、外国を知りたい、“人類の進歩と調和”を見たい…で、とにかく全部見ておかねばならないという使命感のようなものがあった。しかし、記憶に残るのは、変わった建物、スイス館の照明、ミロの絵がなぜあるのか疑問を持ったこと、ガイジンをたくさん見たことぐらいだ。
 1970年は万博の年。自分の記憶では三島事件もラミネートチューブも1970年から外れていたが、日本にとってもワタクシにとっても進歩と調和への転換期だったのかもしれない。  今年、ワタクシはワタクシの進歩と調和を求めて歩もう。

(道下弘子)

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素人政治の功罪
 新党改革の舛添代表が菅総理と二人きりで食事しながら話し合った感想「久しぶりに講義した気分」にはあきれ返った。経済と外交が話題で、元東大の研究生が“市民運動家”にわかるように弁舌をふるってみせる構図は30年前なら「さもありなん」と思うが、今の立場なら「お二人ともお辞めなさい」と言うしかない。マル秘文書の漏えいがなくても、日本の首相が政治・外交の素人であることが野党党首の広言で諸外国に明らかになった。
 素人は先入観にとらわれない新鮮な目で物事を見る。改革にはそれが必要だ。派閥活動に無縁の政治家だったから、小泉元首相は自民党の“ぶっ壊し”に成功した。橋下大阪府知事、河村名古屋市長の都道府県と市町村の権限をめぐる“ぶっ壊し”運動も今までのルールに無知だったからこそ、臆面もなく声を大にできる側面が強い。
 大変革を予見させた民主党政権の一年余は、まだ“ぶっ壊し”もできないままオタオタ続き。素人の強みは後先かまわずに突き進めるところにある。素人が聞きかじりの勉強で玄人ぶろうとすると、右へ左へと迷走することになる。すべては普天間問題から始まった。「出来れば国外、最低でも県外」の看板は素人だから掲げられた。尖閣列島での逮捕劇も、「国内法で対処」という外交素人の法律家だから起こった。これらは旧弊を破壊するための方法論としては悪くない。問題は、どこに着地させるかの展望がなく、対処する人材を欠いた素人集団の悲しさにある。今年はぶっ壊しながら着地を考える玄人の知恵をどれだけ取り込めるか、政界も地方政治も正念場を迎えるだろう。

(有光弘和)

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